紀行文「白峰の麓」の足跡をたどる【前篇】

大下藤次郎氏が箸した紀行文「白峰の麓」には、明治の頃の池の茶屋、丸山林道、平林、氷室神社等、櫛形山と深い関係にある場所の様子が記されている。これに記された大下氏の足取りは次のとおりである。
 明治42年(1909年)11月1日東京から汽車で甲府まで行き[1903年中央線が甲府まで開通していた]、甲府から鉄道馬車で鰍沢まで行った。[身延線の甲府-市川大門間が開通したのは1928年のことである。]鰍沢では、粉奈屋という旅館に宿泊した。
 翌日2日から10日まで、写生旅行を行った。行程は、鰍沢・・・小室の妙法寺・・・出頂の茶屋・・・源氏山中腹・・・湯島奈良田方面。そして、11日に池の茶屋に向かった。  11日は池の茶屋に泊まり[当時は茶屋が存在した。]、12日、平林に向かった。12日、13日は、平林の蛭子屋(えびすや)に泊まり、この間鷹尾山氷室神社を訪れている。14日、平林を出発し利根川添いに下り、舂米の集落に出て、そこから利根川添いに鰍沢に向かい、粉奈屋に戻った。翌15日鰍沢を発ち、鉄道馬車で甲府に向かい、甲府から汽車で東京に帰っている。
大下藤次郎(1870年~1911年)
 明治時代の水彩画家で、日本各地を写生旅行した。欧米や大洋州にも行って、絵の技術を磨き、水彩画家を目指す若者の指導も意欲的に行っている。わかりやすくまた入手しやすい美術雑誌「みずゑ」を創刊し、現在の美術出版の基礎を築いている。画家としても「穂高の麓」「西山峠」「甲州鰍沢」「甲州の春」「早川渓麓の流れ」等多くの秀作を残した。この紀行文を箸した2年後、明治44年に42歳で没したが、「みずゑ」等の発刊は婦人が引き継いでいる。紀行文「白峰の麓」は、「山の旅 明治・大正編」(岩波文庫)に収録されている。
 2004年12月11日、95年前「白峰の麓」に箸された場所をたどり、写真を撮った。暖かい日差しの日だった。各写真タイトルの日付は、「白峰の麓」に基づく、明治42年(1909年)の日付である。
ぬたの池(明治42年11月11日)  写真01
 大下藤次郎氏は、11月11日午前8時30分、現在の山梨県南巨摩郡早川町の湯島温泉から池の茶屋に向かった。
「池の茶屋に着いたのは一時半であった。
 山陰の窪地に水が溜まっている、不規則な楕円形の、広さは一反歩もあろう、雑木林に囲まれて水の色は青い。湯島のお吉さんはすごい池ですといったが、枯木林の中にあったのでは、一向凄くも怖しくもない。」 池の茶屋について次のことが記されている。
写真01 ぬたの池*主人夫婦と子供(甲州弁でボコ)2人が住んでいる。
*姉娘は6つ程で「よしえ」という。この娘を鉛筆写生した。
*水飴を売っている。
*主人夫婦は冬になると平林に帰る。
*池の傍らなのでひじょうに寒い。
*池から氷が採れる。厚く張る時は2尺を越える。
池の茶屋(11月11日)   写真02
 「茶屋に荷物を預けて、ジクジクした水際の枯れ草を踏み、対岸に向かって写生箱を開いた。破れかかった家は、水に臨んでその暗い影を映している、水の中には浮草の葉が漂うている。日は山陰にかくれて、池の面を渉る風は冷たい。半ば水に浸されている足の爪先は、針を刺すように、寒さが全身に伝わる。思わず身ぶるいするとき、早や池の水は岸近くから凍り始めて、池の影はいつか消え失せ、一面磨硝子(すりがらす)のようになる。同時にパレットの上の水が凍って絵具が溶けない。筆の先が固くなる。詮方なしに写生をやめた。
写真02 池の茶屋  池の茶屋というのは、この冷たい水のほとりにに建てられるただ一軒の破ら家(あばらや)である。入口の腰障子を開けて入ると、すぐ大きな囲炉裡がある。囲炉裡の中には電信柱ほどもある太い薪木が燻っている。上に吊された漆黒な鉄瓶には、水の一斗も入るであろう。突当たりは棚で、茶碗やら徳利やら乱暴に列(なら)んでいる。左の方は真暗で分からないが、恐らく家族の寝間であろう、ここでも飴を売るかして、小さな曲物が片隅に積んである。」  池の茶屋は、白い車があるあたりに建てられていたのではないかと思う。当時は、かなり寒かったようだ。茶屋内部の様子が細かく描かれている。
池近くの山(11月12日)   写真03
写真03 池近くの山 「寒い朝で、池の氷は二寸も厚さがある。前の山に上ると富士がよく見える。雪は朝日をうけて薄紅に、前岳はポーと霞がこめて、一様に深い深い色をしている。急いで写生する。」
 池の近くの山に上ってみた。
丸山林道(11月12日)   写真04
写真04 丸山林道のカラマツ林 「池の茶屋を出たのは一時過ぎであったろう。これからは平凡な下り道ではあるが、荷が重いので休み休みゆく、道には野菊、蔓竜胆(つるりんどう)など、あまた咲き乱れて美(うるわ)しい。彼方是方に落葉松の林を見る。奈良田のそれに比して色劣れど、筆執らまほしく思わるるところも少なからずあった。池の茶屋より二里あまりにして、四時半頃平林の蛭子屋(えびすや)という宿に着いた。」
 丸山林道には、今もあちこちにカラマツ林が見える(04/11/3撮影)。

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